「詳伝・伊藤野枝」第234回 古河

文●ツルシカズヒコ

 堤防の中の旧谷中村の土地は、彼のいうところによると二千町歩以上はあるとのことであった。

 彼はなお、そこに立ったままで、ポツリポツリ自分たちの生活について話し続けた。

 しかし彼の話には自分たちがこうした境遇に置かれたことについての、愚痴らしいことや未練らしいいい草は少しもなかった。

 彼はすべての点で自分たちの置かれている境遇をよく知りつくしていた。

 彼は本当にしっかりした諦めと、決心の上に立って、これからの自分の生活をできるだけよくしようとする考えを持っているらしかった。

 こうしてわざわざ遠く訪ねてきたふたりに対しても、彼は簡単に、取りようによっては反感を持ってでもいるような冷淡さで挨拶をしただけで、よく好意を運ぶものに対して見せたがる、ことさららしい感謝や、その他女々しい感情は少しも見せなかった。

 しばらく話をしている間に、そこに来合わせたひとりの百姓は、やはりここに居残ったひとりであった。

 彼は主人から大杉と野枝に紹介されると幾度も頭を下げて、こうして見舞った好意に対する感謝の言葉を連ねるのであった。

 その男は、五十を過ぎたかと思われるような人の好い顔に、意地も張りもなくしたような皺がいっぱいたたまれていた。

 主人とその男と、大杉の間の話を聞きながら、野枝はあとからあとからと種々に尋ねてみたいと思うことを考え出しながら、一方にはまたもうなんにも聞くには及ばないような気がして、どっちともつかない自分の心に焦(じ)れながら、気味悪く足に塗られた泥が、少しずつ乾いてゆくのをこすり合わしていた。

 風が出てきた。

 広い蘆の茂みのおもてを、波のように揺り動かして吹き渡る。

 日暮れ近くなった空は、だんだんに暗く曇って、寒さは骨までも滲み透るように身内に迫ってくる。

 「せっかくお出でくださいましたのにあいにく留守で……」

 気の毒そうに言う主人の声をあとにふたりは帰りかけた。

 「やはりその道を歩くより他に、道はないのでしょうか」

 野枝は来がけに歩いてきた道を指さして、わかり切ったことを未練らしく聞いた。

 またその難儀な道を帰らねばならないことが、野枝にはただもう辛くてたまらなかった。

 「そうだね、やはりその道が一番楽でしょう」
 
 と言われて、また前よりはいっそう冷たく感ずる沼の水の中にふたりは足を入れた。

 ようようのことで土手の下まで帰って来はしたものの、足を洗う場所がない。

 少し歩いているうちにはどこか洗えるところがあるかもしれないと思いながら、そのまま土手を上がった。

 白く乾き切った道が、気持ちよく走っている。

 けれど、ひと足そこに踏み出すと思わず野枝はそこにしゃがんだ。

 道は小砂利を敷きつめてあって、その上を細かい砂が覆っている。

 むき出しにされて、その上に冷たさでかじかんだ足の裏には、その刺戟が、とても堪えられなかった。

 といって、今泥の中から抜き出したばかりの足を思い切って草履の上に乗せることもできなかった。

 「おい、そんなところにしゃがんでいてどうするんだい。ぐずぐずしていると日が暮れてしまうじゃないか」

 そう言ってせき立てられるほど、野枝はひしひし迫ってくる寒さと、足の痛さに泣きたいような情けなさを感ずるのだった。

 それでも、両側の草の上や、小砂利の少ないところを寄る撰(よ)るようにして、やっとあてにした場所まで来てみると、水は青々と流れていても、足を洗うようなところはなかった。

 野枝はとうとう懐ろから紙を出して、よほど乾いてきた泥を拭いて草履をはいた。

 ふたりはやっとそれで元気を取り返して歩き出した。

 日暮れ近い、この人里遠い道には、ふたりの後になり先になりして付いて来る男がひとりいるだけで、他には人の影らしいものもない。

 空はだんだんに低く垂れてきて、いつか遠くの方は、ぼっと霞んでしまっている。

 遠く行く手の、古河の町のあたりかと思われる一叢の木立ちの黒ずんだ蔭から、濃い煙の立ち昇っているのが、やっと見える。

 風はだんだんに冷たくなって道のそばの篠竹の葉のすれ合う音が、ふたりの下駄の音と、もつれあって寂しい。

 ふたりは島田家の様子や主人の話など取りとめもなく話しながら歩いた。
 
 「あの主人はだいぶしっかりした人らしいのね。だけど後から来たおじいさんは、本当に意気地のない様子をしていたじゃありませんか」

 「ああ、もうあんなになっちゃ駄目だね。もっとももう長い間ああした生活をしてきているのだし、意気地のなくなるのも無理はないが。あそこの主人みたいなのは残っている連中のうちでも少ないんだろう。皆、もうたいていはあのじいさんみたいのばかりなんだよ、きっと。残っているといっても、他へ行っちゃ食えないから、仕方なしにああしているんだからな」

 「でも、それも惨めなわけね、あんな中にああしていなきゃ困るのだなんて。今度は、お上だって、いよいよ立ち退かせるには、せめてあの人たちの要求は容れなくちゃあんまり可愛想ね。たくさんの戸数でもないんだから、何とかできないことはないのでしょうね」

 「もちろんできないことはないよ。少し押強く主張すれば、何でもないことだ。だが、残った連中は、他の者からは、すっかり馬鹿にされているんだね。来るときに初めて道を聞いた男だって、そらあの婆さんだって、そうだったろう! 一緒に行った男なんかもあれで、島田の家を馬鹿にしてるんだよ、宗三を批難したりなんかしてたじゃないか」

 「そうね、あの男なんか、こんな土地を見たって別に何の感じもなさそうね。ああなれば、本当に呑気なものだわ」

 「そりゃそうさ、みんながいつまでも、そう同じ感じを持っていた日にゃ面倒だよ。大部分の人間は、異った生活をすれば、すぐその生活に同化してしまうことができるんで、世の中はまだ無事なんだよ」

 「そういえばそうね」

 「どうだね。少しは重荷が下りたような気がするかい? もっとあそこでいろんなことを聞くのかと思ったら、何にも聞かなかったね。でも、ただこうして来ただけで、余程いろんなことがわかったろう? 宗三がいればもっと委しくいろんなことがわかったのだろうけれど、この景色だけでも来た甲斐はあるね」

 「たくさんだわ。この景色だの、彼のうちの模様だの、それだけで、もう何にも聞かなくてもいいような気になっちゃったの」

 「これで、野枝子ひとりだと、もっとよかったんだね」

 「たくさんですったら、これだけでもたくさんすぎるくらいなのに」

 長い土手の道はいつか終わりに近づいていた。

 振り返ると、今沈んだばかりの太陽が、低く遙かな地平に近い空を、わずかに鈍い黄色に染めている。

 空も、地も、濃い夕暮れの色に包まれている。

 すべての生気と物音を奪われたこの区切られた地上は、たったひとつの恵みである日の光さえ、今は失われてしまった。

 明日が来るまではここはさらに物凄い夜が来るのだ。

 黄昏れてくるにつけて、黙って歩いているうち、心の底から冷たくなるような、何ともいえない感じに誘われるので道々、野枝は精一杯の声で歌い出した。

 声は遮ぎるもののないままに、遠くに伝わってゆく。

 時々葦の間から、脅かされたように群れになった小鳥が、あわただしい羽音をたてて飛び出しては、直ぐまた降りてゆく。

 古河の町はずれの高い堤防の上まで帰って来たとき、町の明るい灯が、どんなになつかしく明るく見えたか!

 野枝はそれを見ると、一刻も早く暖い火のそばに、その凍えたからだを運びたいと思った。

 古びた、町の宿屋の奥まった二階座敷に通されて、火鉢のそばに坐ったときには、野枝のからだは何ものかにつかみひしがれたような疲れに、動くこともできなかった。

 野枝は落ちつかない広い部屋の様子を見まわしながらも、まだ足にこびりついて残っている泥の気味悪さも忘れて、火鉢にかじりついたまま湯の案内を待った。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、例によってふたりには尾行が始終ついていた。

 島田宗三が留守だったのは、退去期限の延期交渉に出かけていたからだったが、退去期限は翌年(一九一七年)二月まで延期になった。

 島田家で大杉と野枝が会ったのは、宗三の兄・熊吉である。

 旧谷中村を訪れた大杉と野枝が帰京したのは、一九一六(大正五)年十二月十一日だった。

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

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