「詳伝・伊藤野枝」第246回 第二革命

文●ツルシカズヒコ

 一九一七(大正六)年十月三日、保釈中だった神近は東京監獄八王子分監に下獄した。

 二畳ほどの独房に入れられた神近は、午前八時から午後五時まで、屑糸をつなぐ作業に従事させられた。

 昼食後の三十分の休憩、夕食後から夜八時の就寝までは仕事がないので、本を読むことができた。

 神近が保釈後に執筆を開始した『引かれものの唄』の原稿は、下獄間近に仕上がり、十月三十日に法木書店から出版された。

 十月十五日、安成二郎が大杉宅を訪れた。

 その日の安成の日記には、こう記されている。

 夜、大杉君を訪問、家が分らなくて閉口した。

 巣鴨といふ町にはいつも閉口する。

 暗い道を歩き廻つてやつと探し当てた。

 家具の乏しいガランとした家で、バカに薄暗い電燈の下にもう野枝さんは起きてゐた。

 大杉はまだ浴衣を着てゐた。

 それでも元気で、名前は魔子ときめたと言つてゐた。

 野枝さんは反対したが通らなかつたと言つて笑つてゐた。

 金を○円置いて来た。

(安成二郎「大杉君の五人の子」/『女性改造』1924年10月号)

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、このころの大杉宅に出入りしていたのは他には林倭衛ぐらいで、米代に困ると林の名で買い入れをしたり、山川などにも借金をしていたようだ。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、魔子が生まれた九月末から十二月十一日まで、大杉家には村木源次郎が家事全般の助っ人として同居していた。

 山川菊栄も男の子(振作)を生んだばかりだったため、村木は山川家の助っ人もやっていたが、菊栄はそのころのことを、こう書いている。

 当時村木さんは、大杉さんの家で私達の子、振作と前後して生まれた長女マコちゃんの相手や、台所の手伝い、尾行やかけとりの撃退までひきうけていて、乳母兼執事兼何とやら、さきの関白太政大臣そこのけの肩書きだといばって笑いました。

(山川菊栄『おんな二代の記』_p248~249)

 九月に山川菊栄が長男・振作を出産したので、山川夫妻は東京府荏原郡入新井町(現・大田区大森)に転居。

 大森の春日神社裏の貸家を新居とした。

 村木が助っ人に行ったのは、山川夫妻がこの新居に入居した初日のことだった。

 ……十一月七日、一面こがね色に波うつ田んぼのへりには彼岸花が赤く、農家の垣根に乱れ咲く菊の花にいっぱいに日の光をふりそそいでいた小春日和の昼さがりでした。

 この日はロシアに第二革命の起こった当日として、二重に忘れられない日となりました。

 家はボロながら日当りは申し分なく、低い四つ目垣のそとは蓮池、その先は見渡す限り稲田で、一、二丁先の松林の向うを東海道線の汽車が走っていました。

(山川菊栄『おんな二代の記』_p248)

 新居で山川夫妻を迎えたのが村木だった。

 家に待っていたのは村木さんで、きょうは筒袖の紺がすりとはうって変わった、ご大家の旦那衆然と大島紬の角袖のきものに、高田の馬場の仇討よろしく、誰にもらったか緋の紋ちりめんのしごきをタスキ十字にあやなして、例のごとく口笛で革命歌を吹きながら、かいがいしくお風呂の水をくみこんでいました。

 それがすむと左の小脇に赤ん坊をかかえ、右の手でかつおぶしをかく

 まめまめしく、しかしいかにもゆうゆうと楽しそうな働きぶりです。

 凝り性の大杉さんが和服のときは黒無地の筒袖の羽織に大島の着流し、山高帽に太いステッキといういでたちでしたが、世帯もちのいい前夫人保子さんが袖を筒袖にたちきらず、あとのためと思って縫いこんでおいたのを、野枝さんが村木さんのために四角い袖に直したのだそうです。

(山川菊栄『おんな二代の記』_p248)

 村木によれば、この巣鴨宮仲にいたころが大杉と野枝のどん底時代だった。

 『葉山事件』を最後とした大杉の恋愛問題があつた後ち、野枝さんと二人で巣鴨宮仲に家を持つた頃には、もう、親しくして居た同志の者すら全るで尋ねて来ないやうになつて了つてゐたのです。

 この大杉のドン底時代ともいふべき巣鴨の家は、後ろにだゝつ広い庭があつて、そこには芥だの新聞紙だのが一杯に打ち捨てられてゐました。

 でも、流石に季節です。

 境界の破れ垣に添つた処へは痩せこけたコスモスが一杯に咲いて、洗濯ものゝオシメなどを上から蔽されながら、秋らしい彩りを見せてくれてゐました。

 此の荒れ庭に面した十畳の間の、日当りのいゝ所に布団を敷いて、生まれたばかりの赤ん坊(魔子)を抱いた野枝さんが気だるさうに寝ていました。

 もう、朝夕かなり肌寒う覚ゆる頃だといふのに、大杉も僕も、まだ中柄の浴衣の洗ひ晒し一枚きりです。

 それでも野枝さんだけは産婦だからと云ふので浴衣の上に一張羅の綿紗ーーだつて勿論はげつちよの、垢じんだのが引つ掛つて居やうといふ一寸痛快な体たらくでした。

 あの恋人同志は、随分な見え坊でしたからねえーー。

(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』一九二三年十一月号_p92~93)

 その日の食べ物に事欠くほどの窮乏だった。

 台所の様子、また押して知るべしです。

 赤とんぼがヒヨイと裏口から覗き込んで、

 『ほい、これはお寒い』 

 といふ見得よろしく、ついと帰つて了つて後を、流しの上で、ちよん切られた大根の尾つぽが、ひよいと逆立ちでもしさうな気配を見せてゐましたつけ。

(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』1923年11月号_p93)

 監獄で肺を悪くしてから、寒さは大杉に禁物だった。

 村木ももともと病弱だった。

 秋になっても白地の着物は、ふたりにはかなり堪えた。

 ふたりはあまり大きくもない産婦の布団の裾の方からそっと潜り込んで、絶えず身を温めていなければならなかった。

 米櫃に少しばかり残っている米は、産婦のために取っておいて、昼と晩のお粥にしなければならない。

 「さあ、食おうじゃないか。甘(うま)そうな芋だ」

 大杉と村木は五銭で買ってきた芋をフカシてよく食べた。

 服部浜次の娘、お清が大杉家の台所の手伝いに来たことがあった。

 しかし、そのお清は三日ばかりして逃げるように、日比谷の自宅へ帰ってしまった。

 「まあ、どうしたのさ?」

 母親が尋ねると、お清は眼を丸くしながら呆れたように、こう話したという。

 「だってね、お母さん、あすこの家じゃお米を買ってくれないから御飯が炊けないじゃないの。台所を手伝うっても、私も困るわ」

 大杉は洗濯などもよく自分でやった。

 『おい村木、ちよつと起きて野枝の粥を煮てくれないか–––。俺はまた洗濯だ。』

 お天気の日だと、あの天神髯を生やした大杉が変な腰付で、赤ン坊のオシメから野枝さんの汚れ物迄、きれいに洗ひました。

(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』1923年11月号_p93~94)

★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版)

★神近市子『引かれものゝ唄』(法木書店・1917年10月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

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