「詳伝・伊藤野枝」第249回 襁褓(むつき)

文●ツルシカズヒコ

 暮れも押し詰まった一九一七(大正六)年十二月二十八日、大杉一家は巣鴨村宮仲二五八三から、南葛飾郡亀戸町二四〇〇に引っ越した。

 大杉栄「小紳士的感情」(『文明批評』一九一八年二月号・第一巻第二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』)によれば、大杉には久しい前から労働者町で長屋生活をしてみたいという思いがあった。

 従来、小官吏や小番頭など中流階級の逃げ場である静かな郊外にばかり住んでいた大杉は、そういう小紳士的感情を捨て去り、平民労働者の実際生活に接近し、自分たちの中に彼らとの一体感を養いたいと思ったのである。

 少々の敷金があったので、長屋ではなく一軒建ちの貸家に住むことになったが、生活の窮乏という実際問題が大杉の背中を押した。

 この時期に亀戸に引っ越すことになったのは、十二月二十四、二十五日ごろ、たまたま亀戸に住んでいる旧友の橋浦時雄が巣鴨の家を訪ねて来たからだった。

 巣鴨新田の先に、その寓宅を発見した。

 案内を乞うと大杉君が出て来た。

 暫く話した。

 伊藤野枝との女児[魔子]がヒイヒイ泣いて、それにミルクを飲ませたり襁褓(むつき)を取り代えたりする様は、一寸想像にも及ばなかっ図である。

 野枝女史はいなかった。

 この時亀戸あたりに引越したいといって、それでは僕が案内しようと約した。

(『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』)

 十二月二十八日の夕方、野枝がひとりで貸家を探しに行き、翌日の昼下がりに一家が亀戸に引っ越して来たのである。

 手伝いに黒瀬春吉の第一夫人の青柳雪枝が来ていた。

 「亀戸から」(『文明批評』一九一八年二月号・第一巻第二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)によれば、『文明批評』一月号の校正のために三日間、身を眩まして帰宅すると、大家から来月の十日までに引っ越してくれと宣告をされた。

 それまでの家賃はいらない、二ヶ月分の敷金も返すという条件だったので、大杉はこの条件を即座に呑んだ。

「お蔭さまでいい引越しが出来たんだ。ほんの少々ぢやあるが、引越し料まで貰つて」という、大杉一家にとって渡りに船の引っ越しになった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、「橋浦の家も同番地、現在の江東区亀戸六丁目である。近くに東洋モスリンの工場があり、黒い煙突が聳えている。家賃は月十三円だった」。

 大杉の家のすぐ前の新築の空家に小松川署の刑事が二人待機し、終日、戸を細目に開けて見張っていた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、十二月三十一日、大杉と野枝は魔子を連れて、大森の春日神社裏(現・大田区中央一)にある山川家を訪れ、そこで正月を迎えた。

 山川菊栄はこの大杉一家の来訪の様子を記している。

 菊栄によれば、大杉一家が来訪したのは十二月三十日である。

 その年の暮も押し詰まつて、十二月の三十日に二人はマコさんを抱いてやつて来た。

 家にゐると掛取りがうるさいから此処で一所(しよ)に正月をしに来たといふのである。

 そこで野枝さんが赤ん坊を寝かしておいて、丁度其頃私の処にゐたK青年を相手にお正月の料理に取りかゝつた。

『あなたは炬燵で寝てらつしやいよ。私がみんなしてあげるから。』

 かう私にいつて野枝さんはK青年を買物にやつてから台所に出かゝつたが、見ると例によつてお召(めし)の着物にお召の羽織のゾロリとした姿である。

 私が粗末な羽織や襷(たすき)、前垂などを用意すると大杉さんがいそいで遮(さへぎ)つた。

『いゝんだよ。この人は年中これなんだ。羽織といへば天にも地にもこれ一枚きりで、風呂に行く時も飯たきする時もみなこれ許(ばか)り着て、襷なんかかけたことないんだ。同じ着のみ着のまゝでも木綿ものよりこの方が質にやる時役に立つからね、』と笑つた。

 野枝さんはお召の羽織の袖の端をチヨツと脇の下にはさんだなりで真黒な台所に降りていつた。

 お蔭(かげ)で私は手一つ濡さずにお正月の御馳走にありついた。

(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p16~17)

 菊栄の晩年の著作『おんな二代の記』では、こう記されている。

 その年もおしつまった大みそかだったかその前日だったか、にぎやか笑い声といっしょにドヤドヤとはいって来たのは、マコちゃんをかかえた大杉さんと、おむつの包みをもった野枝さんで、自分の家ではかけとりがうるさいから、ここで年越しすることにきめたという。

「お正月の支度まだでしょ。私が台所ひきうけてあげるわ、あなたは寝てらっしゃい」。

 こういって野枝さんは立ちました。

 滝縞のお召にお納戸の錦紗(きんしゃ)の羽織を着たまま両方のタモトのはしをちょっと帯の間へはさんで台所へ出ようとする野枝さんの前に、まだエプロンのないころで、私は自分の粗末な羽織やタスキや前掛けをもちだしました。

 大杉さんは横からそれをさえぎって、

 「いいんですよ、この人はいつでもこのままなんだ。内も外も、台所をするのも銭湯にいくのもね。このほかにきるものはなにもないんだ、あとはネマキだけさ。質に入れるとき、これがいちばん役にたつからこれだけおいておくんだ」。

 こうして、野枝さんは台所に、子供たちは手伝いの婦人の手にある間、大杉さんと山川と私は座敷で火鉢をかこみました。

 話は結局革命中のロシアをどうみるか、におちつき、大杉さんは急いで政府を作るのが間違っている。

 革命でいったんめちゃめちゃになったふるい社会組織とその構成要素は、ちょうどお盆の上に大小の石が積み重なってめちゃくちゃになってるようなもんだ、それをむりにキチンと揃えたりしちゃまたもとのようになってしまう、うっちゃっとけばいいんだ、そしてお盆をゆすっていれば、しぜんおさまるところにおさまるもんだ、というような話でした。

 当時革命ロシアの真相はまだわからなかったものの、内外の反動勢力が呼応してたち、武力をもって革命政権を倒そうとして、革命と反革命との間に死闘のはじまっていたときでした。

 元日を私の家で遊び暮らした大杉さんの一家三人はその夕方か翌日か、また陽気に笑いさざめきながら帰っていきました。

 そのあとで

 「おもしろい奥さまですね、私あんな方はじめて見ました」

 と私の家の手伝いはお腹をかかえて笑いこけました。

 おしめはゆかたをバラバラにしたなりで、袖やおくみをほどかずにそのまま使い、「すこしばかりぬれたのはいちいち洗わないでいいのよ」と、こちらで洗いかけたのを抑えて竿にかけ、よごれたのをほしてそのまま使ったそうで、一事が万事、人目をおどろかせたのですが、しかし、まあなんと愉快そうな二人でしたろう。

 まったく大きな少年少女といいたいようでした。

(山川菊栄『おんな二代の記』_p252~254)

★山本博雄, 佐藤清賢 編『橋浦時雄日記 第一巻 冬の時代から 一九〇八〜一九一八』(雁思社・1983年7月)

★『大杉栄全集 第一巻』(大杉栄全集刊行会・1926年7月13日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

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