「詳伝・伊藤野枝」第247回 築地の親爺

文●ツルシカズヒコ

 一九一七(大正六)年の秋も深まったころ。

 米が買えず大杉と村木は五銭の芋をフカシして腹を満たし、野枝と魔子が横たわる布団の裾に潜り込んで暖を取り、しかも眼の前には収入のなんの希望もないそのころ。

 大杉は平気で雑誌発行の計画を立てていた。

 その日も、村木は大杉とふたりで野枝が寝ている布団の裾に潜り込み、大杉の自信たっぷりの雑誌発行計画を笑いながら聞いていた。

 すると、来訪者があった。

 「ごめん下さい」

 しわがれ声の、低い、しかしどこか太い女の声が聞こえた。

 村木がごそごそと布団から這い出して玄関に出て行くと、背の低い変なお婆さんがしょんぼりと佇んでいた。

 「あの、大杉さんはいらっしゃいましょうか、野沢でございますが……」

 うら枯れたような短い髪が、びんのところや前の方にばさばさ乱れていて、垢ずんだ顔には大きな眼がギョロギョロしていた。

 生活の疲れからだろうか、その眼はドロンと濁っているようにも見えて、村木はちょっと気味が悪かった。

 「大杉くん、野沢というお婆さんが会いたいって来ているんだが–––」

 「うん、そうか」

 見栄坊の大杉はすぐ起き上がって、あたかもその浴衣姿が当然なんだと思わせるような態度で、すまして玄関に出て行った。

 「誰なの……」

 うとうとしていた野枝が、そのときちょっと首をもたげた。

 「野沢というお婆さん–––あなたは知ってる?」

 「あら、野沢のお婆さんなの。じゃあ、お金をこさえてくれっていうのかもしれなくってよ。でも、今は困るわねぇ……」

 「どんな人?」

 「村木さんは知っているでしょう。ほら、一昨年に死んだ野沢重吉という車夫さんがあるじゃないの。あの人のおかみさんよ。野沢さんの写真が『労働運動の哲学』の初めに載っているじゃありませんか」

 「そうそう、野沢! あの『築地の親爺』とかいう、そうですか」

 野沢重吉は日本に社会主義運動が起こった当初からの活動家だった。

 銀座尾張町の角の「尾角屋」駐車場に出ていた車夫で、仲間の車夫や縁日商人などの間では「築地の親爺」と言われ、誰も知らぬ者はなかった。

 胃癌を患った野沢は二年前、一九一五年九月二十五日に慈恵医院で死去した。

 大杉は第二次『近代思想』(一九一五年十月号)の巻頭に「築地の親爺」という追悼文を載せ、自著『労働運動の哲学』(一九一六年三月発行)の「序」でも野沢について言及している。

 村木は台所に行き、野枝のお粥を煮ながら、玄関の次の四畳の部屋でお婆さんが何かくどくどと話している底太い声を聞いていた。

 すると声が止んで、大杉が奥へ行く音がしたと思ったら、間もなく彼はニヤリと笑いながら台所にやって来た。

 「おい、またひとつ行ってくれないか」

 大杉は今まで野枝さんが着ていた羽織を手にしていた。

 村木は苦笑しながら黙ってそれを受け取り、古新聞にくるんで裏口からそっと出て行った。

 外は見事に澄み切った秋晴れだった。

 質屋の暖簾をくぐるとき、まだ新しい紺の香が村木の鼻をついた。

 質屋の中庭に大きな松があった。

 「キキキキキ、キキキキキ」

 身を裂くような百舌の鳴き声が聞こえた。

 質に入れた野枝の羽織は五円になった。

 村木はわざわざその五円をくずしてもらって、帰り道を急ぎながら、いろいろと考えた。

 「お産がすんだばかりの野枝さんには気の毒だが、これで野沢のお婆さんも喜ばすことができるし、いくらか残せば米も買えるじゃないか–––」

 帰宅した村木が、台所から声をかけた。

 「大杉くん、ちょっと」

 大杉はすぐに出て来た。

 「五円貸したよ」

 「そうか、ご苦労だった」

 大杉は金を無表情で受け取ると、お婆さんの方に引き返して行き、

 「はなはだ少ないが、じゃあ今日はこれだけ–––」

 と言いながら、無造作にお婆さんに渡してしまった。

 村木はちょっとぽかんとした。

 まさかみんな渡すまい、せめて二、三日の米代は残すだろうと思っていたからだ。

 が、しかし私は、お婆さんを送り出してゐる大杉の後ろ姿を呆れたやうに眺めてゐるうちに、何んとも云へない気持–––と云ふよりは温い血潮のやうなものが、何んだが斯う腹の底の方から湧き上つて来るやうに感じて来ました。

 そして、大杉のよくやるニヤリとした笑ひが、私の顔にも現れました。

(村木源次郎「ドン底時代の彼」/『改造』1923年11月号_p96)

 野枝は『女の世界』十二月号・第三巻第十二号に「嫁泥棒譚」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を書いた。

 シャルル・ルトゥルノー『男女関係の進化』は、大杉が翻訳し一九一六年十一月に春陽堂から刊行されたが、訳者が「社会学研究会」となっている。

 日蔭茶屋事件直後の刊行だったので、春陽堂が大杉の名を出すのを恐れたためらしい。

 野枝はこの大杉が翻訳した『男女関係の進化』に出てくる、掠奪婚姻について言及している。

 野枝の祖母・伊藤サト(一八四二〜一九二二年)の最初の結婚が、掠奪婚だったという実話などを紹介している。

 大杉と野枝が『文明批評』創刊のための編集作業を開始したのは、十二月上旬だった。

 経済上の困難は依然として変わらない。

 現に此の三ケ月程殆ど全く無収入である。

 それに此の秋以来は大部分の月日を病床に送つてゐる。

 しかしもう辛棒が出来ない。

 何かやり出さずにはゐられない。

 金は始めさえすればどうとでもして作れる。

 からだも自分自身の仕事でさへあればまだ/\無理はきく。

 たつた一枚の伊藤の羽織を質に置いて、原稿紙を買つて来る、僕の外出の電車賃にする。

 山川夫妻と荒畑との寄稿の約束も出来た。

 原稿も出来た。

 多少の広告もとれた。

 四五人の友人の十円ばかりづづの寄付金も出来た。

 とにかくこれで創刊号だけは出せる。

 あとは又あとの事だ。

 ただ少々まごついたのは、或る友人の手で出来る筈の保証金が遂に間に合わなかつた事だ。

 そのために、折角腹案し準備した編輯の方針を大急ぎで変へて了つた。

(「創刊号・巣鴨から」/『文明批評』1918年1月号・第1巻第1号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)

 金の出所については、大杉豊『日録・大杉栄伝』に詳しい。

「調査書」には大口の寄付として、黒瀬春吉と江渡狄嶺(幸三郎)が百円を拠出、との記載がある。

 黒瀬は、東京瓦斯社長・久保扶桑の庶子。

 橋浦と交際があり、彼を介して知り合ったと思われる。

 「保証金が間に合はなかつた」と残念をにじませるのは、保証金を納めて時事問題も扱う予定だったが、引受けてくれた大石七分が株で失敗したため、かなわなかったことによる。

 大石は資産家の兄・西村伊作の援助や叔母・くわからの相続遺産を以て、この後も大杉を支援する。

(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p216~217)

 「調査書」とは内務省警保局「大杉栄の経歴及言動調査報告書」(社会文庫編『社会主義者無政府主義者人物研究史料1』柏書房・一九六四年)のこと。

 一九八一(昭和五十六)年二月二十六日。

 その日、瀬戸内晴美は青山斎場で営まれた市川房枝の葬儀に出席したが、その足で日産厚生会玉川病院に入院中の荒畑寒村を見舞った。

 そのとき瀬戸内は『文藝春秋』に『美は乱調にあり』の続編「諧調は偽りなり」を連載中だったので、荒畑の体調を見ての取材を兼ねていたのだろう。

 荒畑は『文明批評』に協力することにしたのだが、そのころの野枝についてこう語っている。

 「あんまり印象に残っていないが、野暮ったい女でしたよ。私たちのやっていた『近代思想』の後、大杉が野枝とはじめた『文明批評』を、また一緒にやってくれないかと、二度まで誘われたのに、二度とも私が断ると、大杉は『君は野枝が嫌いなのか』といったので、こっちが驚いたことがあります。何故なら、私は伊藤野枝とはほとんど面識がないし、好悪の感情が入る余地無いからです。日蔭茶屋事件の時、見舞ったら、病室にいたようにも思うが、野暮ったい女がいたくらいの印象しかないんです」

(瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり(上)–––伊藤野枝と大杉栄』_p100)

 荒畑が九十四歳で死去したのは、瀬戸内が見舞った八日後の三月六日だった。

佐藤春夫邸 大石七分の設計

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり(上)–––伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫・2017年2月16日)

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