伊藤野枝年譜 1923年(大正12年)28歳


【4月】
●伊藤野枝「私共を結びつけるもの」
 ➡『女性改造』4月号

【5月】
●アナキストだった平林たい子(18歳)と
山本虎三、大杉滞仏を知り、
労働運動社を訪れ野枝と面会。
➡『日録・大杉栄伝』p464

【7月】
●7/9
野枝、魔子を連れ博多から神戸入り。
神戸須磨の松月旅館に宿泊。

●7/11
大杉が乗船する日本郵船・箱根丸、神戸入港。
大杉「牢屋の歌」脱稿。
〈一九二三年七月十一日 箱根丸にて〉

その夜は松月旅館に一泊。
野枝洋装写真

●7/12
朝8時、大杉一家、1等車に乗り神戸を出発。
夜7時半、東京到着(神戸・東京間は12時間)。

大杉栄_192307
帰国した大杉栄と伊藤野枝、長女・魔子
(引用:『大杉栄 伊藤野枝選集 第三巻』
黒色戦線社)

●7/13
横浜に住む大杉の弟・勇、大杉宅を訪れる。
勇は妹の橘あやめの子、宗一を預かっていた。

米ポートランド在住のあやめは
結核を患い、帰国。
姉・菊がいる静岡の伴野病院に入院していた。

●7/19ころ
岩佐作太郎、大杉宅を訪れる。
大杉、野枝の膝枕で
白髪を抜いてもらっていた。

●7/21ころ
大杉、野枝、魔子、茅ヶ崎の南湖院に
横関愛造を見舞う。

●7/28
大杉、野枝、銀座・パウリスタの
帰国歓迎会に出席。
千葉亀雄も出席。

野枝、安成二郎に安成宅の近所に
家がないかと訊ねる。
➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」

●7/29
夕方、野枝が安成二郎宅を訪問。
安成が野枝を案内して探し当てる。
➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」

●7/30
大杉、ヴァガボンド社の
夏期社会思想講習会で講演。
講師陣は大泉黒石(大泉晃の父)、
千葉亀雄、神近市子など。

●この月
大杉、野枝と魔子を連れて
山崎今朝弥を訪問し帰国報告。
前年、山崎が大杉宅を訪問。
魔子と山崎の子・堅吉が大げんかをする。

●この月
大杉、労働運動社から離れていた
和田久太郎と面談。
和田は野枝と折り合いが悪かった。

【8月】
●8/1
大杉と野枝の共訳、
ファブル『科学の不思議』をアルスから出版。
ファブル科学知識叢書の第一編。
野枝、辻一(まこと)に送る。

●8/4
野枝、新居の掃除に来る。
一緒に来た魔子
は9/1の地震まで安成宅で過ごす。
➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」

●8/5
労働運動社に居候していた大杉一家が
豊多摩郡淀橋町大字柏木371番地に移転。
現在の北新宿一丁目16~27。
内田魯庵の家と同番地。

所轄の淀橋署は尾行に
老練な刑事3名と穴埋めに巡査3名を追加。

●8/6
大杉、野枝と魔子とルイズを連れ
内田魯庵宅を訪問。
➡内田魯庵『思ひ出す人々』「最後の大杉」

●8/9
野枝、長男ネストル(栄~1924年8/15)出産。
「無政府将軍」ネストル・マノフから。
大杉、博多の代準介に電報を打つ。

早産だった理由を
野枝が後で安成に語る。
➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」

遺児については
➡安成二郎『無政府地獄』「大杉君の遺児達」

●8/10
大杉「入獄から追放まで」脱稿。
〈一九二三年八月十日、東京にて〉

大杉「無政府主義将軍
ネストル・マフノ」脱稿。
〈一九二三年八月十日、東京にて〉

●8/10ころ
銀座の洋食屋・清新軒で佐藤春夫らに会う。

●8/11
大杉、ドイツから帰国した
森戸辰男に訪問伺いの書簡を書く。

●8/16
代準介がモト(野枝の叔母)、
エマ、女中の水上雪子
(野枝の親戚の娘/没落した
料理屋の娘・18歳)を伴い上京。
エマは十ヶ月ぶりに両親の元に戻る。
モト、水上雪子が同居。

エマ、九州弁になっていた。
➡安成二郎『無政府地獄』「大杉君の遺児達」

●8/23ころ
野枝、慶応病院に入院中の
安成二郎の妻を見舞う。
➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」
➡安成二郎『無政府地獄』「挿話」

●8/27
代準介、東京を発ち、大阪で二泊。
震災前日に博多に戻る。
➡野枝たちが柏木に引っ越してきたころから
虐殺された後については内田魯庵の文章。

●『婦人公論』8月号。
有島一郎・波多野秋子追悼号。

野枝「軽蔑と反感」
波多野秋子に「軽蔑と反感」を
持っていた旨を執筆。

【9月】
●『改造』9月号。
大杉「入獄から追放まで」

大杉「無政府主義将軍 ネストル・マフノ」

1921._Нестор_Махно_в_лагере_для_перемещенных_лиц_в_Румынии
ウクライナのアナキスト、
ネストル・イヴァーノヴィチ・マフノ
(1888年-1934年)

From Wikimedia Commons

●9/1
11時58分、関東大震災。

大杉栄&伊藤野枝の関東大震災

平塚らいてう&神近市子の関東大震災

その時、魔子は
安成二郎宅で昼食を食べていた。

安成二郎、大杉&野枝の最後の写真を撮る。

大杉&野枝最後の写真
引用:安成二郎『無政府地獄』

大杉栄&伊藤野枝の最後の写真

➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」

荒木郁子と岩野泡鳴と清子の子、
民雄(小学校三年)は
玉名館の二階の広い座敷にいた。
郁子と民雄、生き別れになる。
➡『「青鞜」の火の娘』

●9/2
戒厳令しかれる。

●9/3
亀戸事件。

野枝が父の亀吉宛にハガキを書く。
➡『吹けよ』p306 野枝、
代準介に米送れの電報を打つ。
代、米五俵を博多から船便で送る。

長江、品川の御殿山に住む
中村古峡の家に仮寓。

●9/4ころ
被災したロシア文学者・袋一平一家
(鴬谷の家が被災)、
銀座で焼け出された友人の
服部浜次夫妻が大杉家に。

●9/7ころ
大杉、馬場孤蝶宅を見舞うが留守。

●9/8
労働運動社の同志が一斉に検束される。

●9/12
大杉、金策のため出版社を回る。

●9/13
夜、安成二郎(たぶん読売新聞社から帰宅途中)
大杉宅に立ち寄る。
二階で野枝が淹れた
珈琲を飲みながら小一時間話す。

●9/15
大杉の弟・勇から
避難先を知らせる便りが届く。
横浜市西戸部町塩田の家を
焼かれた勇一家の避難先は
神奈川県橘樹(たちばな)
郡鶴見町字岸(鶴見三方園近く)。
勇の勤務先、東京電気会社の同僚・
大高芳朗宅。
➡『大正自由人物語』

横浜の大杉の弟・勇から大杉宅へ
無事との来信あり。

大杉、入露中の寒村の留守宅を見舞い
寒村の妻のお玉さんに面会。

夕方、村木が大杉宅を訪問。

野枝、村木と一緒に家を出て
神楽坂の叢文閣を訪れ
足助素一(あすけ・そいち)
から20円借りる。

足助素一➡近藤憲二『一無政府主義者の回想』pp285

●9/16
午前9時すぎ、野枝と大杉が家を出る。
尾行は淀橋署の江崎と
東京憲兵隊の鴨志田の2人。

川崎(砂子町)で辻潤の家を訪ねるが
家が損壊し無人。
この年の夏休みには一(まこと)が大
杉宅に遊びに来ていた。

京浜電車の生麦で降り、
鶴見町岸の大高芳朗宅を訪れたが、
勇一家は近所の貸家に移住していた。

大高の母の案内で
鶴見町東寺尾の勇一家を訪問。
東京電気(現・東芝)川崎工場勤務の
勇は在宅していた。

午後二時半すぎに勇の家を出る。
女の子用の浴衣を着た宗一も同行。

午後5時半頃、大杉の妹・橘あやめの子、
宗一(むねかず)(6歳)を
連れて帰宅の途中、
自宅近くで憲兵隊に拘引される。

その夜、麹町東京憲兵分隊において
野枝、大杉、宗一が陸軍憲兵大尉
(渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長)
甘粕正彦らに虐殺され、
簀巻きされ古井戸に投げ込まれる。

※荒畑寒村は池田藤四郎から
銃殺されたと聞いている。

●9/18
大杉の弟・勇が栄の家を訪問。
留守宅では勇宅に泊まっていると
推測していたので、
不審に思い淀橋署に捜索願を出す。

報知新聞夕刊に「大杉夫妻と長女三名を検束」
の記事載る。

●9/19
勇、報知新聞を読み大手町の
憲兵隊司令部を訪れるが、
門前払いされる。

後藤内相が警察情報により事件を報告。
山本首相が田中陸相に調査を指示。

事件が発覚し軍法会議と
小泉憲兵司令官らの処分を決定。

●9/20
東京朝日新聞記者から、
大杉らは憲兵隊に殺害された
可能性が高いと勇に連絡。
勇、憲兵隊司令部に行き質すが追い返される。

大阪朝日新聞と時事新報が号外で
「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」と報道。
以後、報道を禁じられる。

三人の遺体は憲兵隊本部の井戸から
三宅坂の東京第一衛戍病院へ搬送される。
田中隆一軍医により死体解剖。

●9/23
勇宛に第一師団軍法会議から、
事件の証人として召喚する旨の通知。
殺害を確信する。

●9/24
代準介、上京。

午後三時、陸軍省が
「甘粕憲兵大尉が大杉外二名を致死」と発表。

●9/25
三宅坂の東京第一衛戍(えいじゅ)病院から
三人の遺体を引き取る。

引き取りに行ったのは以下。
・大杉の弟の勇と進
・代準介
・安成二郎(読売新聞婦人部長/
大杉宅の近所に住んでいた)
・服部浜次(社会主義の洋服屋/
楽町の家が焼失し大杉宅に避難)
・山崎今朝弥
・村木

●9/25頃
辻潤、大阪道頓堀で号外を受け取り、
野枝が虐殺されたことを知る。
 ➡「ふもれすく」

●9/27
三人の遺体が落合火葬場で荼毘にふされる。
三人の遺骨が落合火葬場から労働運動社に到着。

【10月】
●10/2
和田久太郎、駒込署の留置場に
いる近藤憲二と面会。
大杉の子供を野枝の実家が
引き取ることの了解を得るため。

代準介、四人の遺児、
分骨した三人の遺骨を抱き福岡に向かう。
野枝の叔母・モト、雪子も同行。
進も神戸まで同行。

●10/3
近藤憲二、駒込署から釈放される。

●10/4
代準介、分骨した三人の遺骨を抱き、
四人の遺児を連れて博多駅に到着。

4人の子供たちは伊藤家に入籍され、
魔子は眞子、エマは笑子(えみこ)、
ルイズは留意子、ネストルは榮と改名。

午前7時ごろ、松阪駅近くで
甘粕正彦の弟・五郎(津市第一中学に在学)が
ギロチン社の田中勇之進に
短刀で切りつけられる。
 ➡『大正自由人物語』(p253)

改造社の提唱により識者が
「二十三日会」を組織。
首相や陸相などに建議書を提出。
識者は千葉亀雄、吉野作造、
鈴木文治、大川周明など。

●10/5
三人の遺骨、今宿の伊藤家に。

●10/6
安成二郎、大杉&野枝の形見を貰う。

大杉が愛用していた西洋の煙草盆セット。
安成の妻は野枝の支那扇。
そして「珈琲をつぶす器具」も。
➡安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』
「かたみの灰皿」

●10/7
大杉らの遺骨、遺品が労働運動社に運ばれ、
あやめも仮寓する。
遺骨はその後、勇宅へ。

●10/8
甘粕正彦らの第一回公判。
午前9時から青山の
第一師団軍法会議新館法廷。

大杉ら虐殺事件記事が解禁になり
「外二名」が野枝、
宗一であることが公表される。

●10/9
議論沸騰の閣議で後藤新平内相が
顔を真っ赤に染めて不法行為をなじり
「人権蹂躙だ」と叫ぶ。
➡「読売新聞」1923年10月9日
『時代の先覚者 後藤新平』(p271)

柏木の家に留守居していた勇夫妻が退去。
菊池寛が空いた家を借りたいと申し入れ。

●10/16
福岡県糸島郡今宿村谷の松林中で
仏式(真宗)で三人の葬儀と埋骨式。
海を見下ろす松林の中の小高い墓原
(松原の墓地)に三人一緒に埋葬される。

後に伊藤亀吉、山から大きな自然石を引いて
来て墓碑銘のない墓を建てる。
➡『野枝さんをさがして』
(「野枝さんの墓」)

●10/22
真子、福岡市春吉尋常小学校1年に編入。
代の家(福岡市新柳町)から通う。

●10/25
大杉『日本脱出記』がアルスより出版。

収録著作中「外遊雑話」と「同志諸君へ」は
死後、机の引き出しから見つけられた遺稿。

外遊雑話_大杉栄伊藤野枝選集十一巻
大杉の遺稿「外遊雑話」
(引用:『大杉栄 伊藤野枝選集
第十一巻』黒色戦線社)

【11月】
●11/1
清、辻の三男秋生出産
(昭和二十年、ルソン島
イサベラ州イラガンで戦死)。

●吉野作造「甘粕事件の論点」
(『改造』1923年11月号)

●長江、府下滝野川へ転居。
この頃、今泉篤男、長江に教えを請う。
長江の顔を〈一肉塊と化した顔貌〉と表現。

●11/24
大杉『自叙伝』が改造社から出版。

●11/25
野枝の追悼式が野上弥生子宅で
旧青鞜同人により開催される。
幹事はらいてうと岩野英枝(泡鳴未亡人)

【12月】
●12/8
甘粕事件の判決公判。

甘粕は懲役10年(3年余で釈放)。
曹長・森慶次郎は懲役3年
(1年2ヶ月で釈放)。
伍長・平井利一、上等兵・鴨志田安五郎、
上等兵・本多重雄は無罪。

●12/11
大杉の遺骨、父・東の墓所である
静岡県清水町の鉄舟寺に
埋葬しようとしたが拒否される。

●12/16
上野桜木の谷中斎場にて
大杉、野枝、宗一の葬儀

主催は自由連合派労働団体と
無政府主義思想団体、参会者700人。

葬儀の日の朝、右翼・大化会の会員により
遺骨が強奪される。
警保局長と北一輝の
取り引きにより返還される。

●12/17
小島清の日記
「瓢然と潤がやってくる。
東京へ金策に出かけて又暫くは
宮崎に落ちてくつもりだと、
三月末頃上海へ行く予定だ相な」

●12/20
近藤憲二、和田久太郎、村木源次郎らが
第四次『労働運動』を創刊。
1926年7月まで18号まで発刊。

●12/27
虎ノ門事件。
難波大助が摂政を狙撃。

伊藤野枝年譜 索引