「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」107回 武者小路

文●ツルシカズヒコ

 一九一四(大正三)年あたりから、『青鞜』には反論や論争スタイルの文章が掲載されるようになった。

 各人の勉強の成果が徐々に実り、反論、論駁の論陣を張れるようになったのだ。

 その急先鋒が野枝だった。

 武者小路実篤が『白樺』誌上で、野枝が『青鞜』に掲載した「動揺」について、こう批判した。

 青鞜のN氏は僕の「世間知らず」を軽蔑してゐるそうである。

 さうしてその女主人公C子を軽蔑してゐるさうである。

 それはいゝ。

 しかしそれなのになぜ進んでもつと軽蔑される資格を十二分にもつてゐる、もつと無自覚で落ちつきのわるい、入り込む処に入り込んでゐない、自己とT氏とを軽蔑しないのだらう。

 それを軽蔑し切る力があるか、或はそれをジヤスチフアイし切る力があれば「世間知らず」の価値がわかるべきはづだ。

 女らしくいゝ加減の処で都合のいゝ処で自分の考をとめておくから他人の心待ちに同感が起し憎いのだ。

 他人の運命に同感が起し憎いのだ。

 女と云ふものは他の女の運命に公平な同感を起せないものだ。

 自己の型以外に出て落ちつきある運命をつくつてゐる女にまで同感を起し得ないものだ。

 さうして其処に女が主婦として又母として小さい世界の女王として満足の出来る処なのだ。

 自分はN氏の運命、R氏の運命に向つて尊敬する気もないが軽蔑する気もない。

 たゞ無用な処にひつかゝつて云はなくつてもいゝ処にC子に対する女らしい軽蔑を見せたがるので一寸不快を感じたから以上のことをかいた。

「六号感想」/『白樺』1913年12月号・第4巻第12号_p129~130)

「N」は野枝、「T」は辻、「R」はらいてうのことである。

「C子」は一時、青鞜社の社員であった竹尾房子(宮城ふさ)で、前年二月に武者小路と房子は結婚していた。

 野枝はこう反論した。

「武者小路氏に」

 十二月号白樺の誌上で私が「世間知らず」を軽蔑してゐるさうだとのことをお書きになつたのを拝見して私は本当に意外に存じました。

 私は他人の作品に対して無闇とさう軽蔑したり悪く云つたりしたことは御座いません。

 殊に私はもうずつと以前からあなたのお書きになるものは可なり深い注意と尊敬をもつて忠実に拝見して居ります。

 私はC子氏に対しては仰しやる通りに或る侮蔑を持つて居ります。

 然しそれは、あなたには些の関係もないC子氏で御座います。

 私にとつてはそのC子とくらべられることは本当に不快で御座いました。

 ですからその通りのことを書きました。

 それからまたあなたは私とTのことについてお書き下さいましたが何のことだか私はその解釈に苦しみます。

 あなたは私共の生活についてあゝ云ふことを憚らず仰しやれるほどよく私共を御存じですか……。

 それから「女らしくいゝ加減な処で考へを止めて置くから他人の心持ちに同感することが出来ないのだ」とい云ふやうなこともあなたの勘違いから出てゐるのです。

 あなたのゐるまわりにはどんな女の方達がゐらつしやるか存じませんが屹度(きつと)狭量な何の考へもない浅薄な方達ばかりだと見えます。

「無用な処に引つかゝつて云はなくてもいゝところにC子に対する女らしい侮蔑を見せたがるので不快を感じた」と云ふお言葉では一層なんだかあたなの方が狭い御了見だと云ひたくなります。

 決して云はなくともいゝことではないのです。

 私は自分の感じたことを率直に書きました。

 あなたこそ本当に無用な処に引つかゝつてつまらない侮蔑を見せたがつてゐらつしやるでは御座いませんか。

(「編輯室より」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p53~54)

『中央公論』(一九一三年十一月号)に掲載された野上弥生子の小説「指輪」に対する批評を、中村狐月(こげつ)が『読売新聞』(同年十一月十五日)「十一月の創作(上)」に書いた。

 野枝は「指輪」を名作だと思っていたので、狐月を批判した。

 ……久しぶりの御作の故か十一月の創作中で一番期待したものだつた。

 ……先づ女らしい情緒が至る処に少しの嫌味もなくなだらかに出て素直な処が気持よく感ぜられた。

 物の観方考へかた細かな筆致、描き出された情景、すべての点において、優しい女らしさを失はない作だと思つた。

 その点に於て私は婦人作家のうちでこの位美しい純な作をものする人はあるまいと思ふ。

 読売新聞で中村狐月(こげつ)氏の、この作に対する評をよんで私は本当に不快に思つた。

 何故なら中村氏は女を無視してゐるのだ。

 ……同氏には女の生活が解らないのだ。

「女と云ふものはいらないものだ。何故男が子供を生むことが出来ないのだらう……女と云ふものはあんな下だらない仕事をする為めに生れて来たるのだ……」と云ふやうな乱暴なことを云つてゐる。

 こんな人にどうしてこの作なんかヾ解らう?

 批評家は、寛く深い万遍なき理解を有する人でなくてはならぬ筈である。

 中村氏の如きは狭い/\自己の或る心持を標準として批評する人である。

 かう云ふ小さな愚かな批評家は遠慮なく葬つてしかるべきである。

(「編輯室より」/『青鞜』1914年1月号・第4巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p54~55)

『新婦人』一月号に「新しき婦人の男性観」という野枝の談話が載った。

 記者によって勝手に作られた内容だったので、野枝は憤怒した。

  然しそれは私がその雑誌の記者と称する人に話したことゝは大変に相違した事柄である。

 私は到底それを読んで憤怒を覚えずにはゐられなかつた。

 又、多数の人たちに自分の談話としてそれが読まれるのだと思つたとき私は涙がにじむ程の恥かしさを感じた。

 私は矢張り物を言はないで書いてゐたい。

 もうほんとにおはなしなんかするもんぢやないとしみ/″\思ふ。

(「編輯室より」/『青鞜』1914年3月号・第4巻第3号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p66~67)

 二月、前年暮れに青鞜社事務所に泥棒が入り、青鞜社は事務所を北豊多摩郡巣鴨町一一六三から巣鴨町一二二七へ移転した。

 神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で「青鞜社第一回公開講演会」が開催され、千人の聴衆を集めてから一年。

「雑音」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p200~201)によれば、『青鞜』の周辺は火が消えたようになり、毎日のように顔を合わせていた社員もばらばらに一週に一度か二度くらい事務所に顔を出すくらいになった。

 急激な世間の圧迫にまったく屏息してしまったという風評は辛かったが、この暇にみんなが勉強に没頭するしかなかった。

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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