週刊ポチコラム:ポチことツルシカズヒコが雑誌批評などを書きます

vol.34 椎根和著『popeye物語』ーその2

椎根和著『popeye物語』(新潮社)、3度目の読了。
新たに気づいた同書の「名言」やそれに対する僕のコメントなどを書きます。太字は同書から引用。

大笑いしたのは、ジャマイカを訪れてのボブ・マーリーのインタビュー。
ボブはこの年、1979年に日本でコンサートを行っていたが、その数ヶ月後のインタビューである。
「日本はどんなところだった?」という、岩瀬編集部員の問いに、ボブはこう答えるのだった。

「そう、このジャメイカから遠いけど、ジャーの神の力で結ばれている近い国だよ。JAHーPAN、JAHーMAICA。そうだろう? ハハハ……」

レゲエのカリスマが〈吉本の間寛平の駄洒落みたいなことをいった〉のだった。ボブにこんな発言をさせた、ポパイの海外取材のフットワークの良さを感じる。

ポパイからブルータスに移籍した都築響一が、ニューヨーク取材で、「ポパイの伝統ー未来の有名人と、無名時代に知りあう」を実践したって話もいい。

〈都築はNYで、ただただ金にこまっていて、有名になるという野望だけを持っていた無名の女と知りあう。その女は、お金をくれるなら自分の部屋を撮影させてくれるといった。友達の部屋だったかもしれないが、そういう異常に機転のきく女だった。その女は、数年後、マドンナという名で世界の大スターになった〉

これって、東京在住の若者の部屋を撮影した、都築響一の代表作『TOKYO STYLE』の元ネタのような話だよね。

それと、泉麻人、近田春夫が物書きとしてポパイでデビューする経緯とか、あるいは社員編集者だった鈴木正昭(後に直木賞受賞作家の西木正明)が、ポパイの編集者としてはズレていたという話も興味深い。

以下は「名言」の引用と僕のコメントです。

★平凡出版の成功伝説として、1册の雑誌の出現によって、街の風俗を一変させ、社会現象にしたてあげることが要求されていた。。平凡パンチ、アンアンのように……。この楽しみは、成功した編集者にしか理解できない。

★その小見出しはポパイの最終目標をズバリと表していた。「流行はつくらない、風俗をつくる」。現実に石川は創刊以来の3年間で30個ちかくの新しい風俗をつくった。そのうちの大部分がまだ日本に残っている。

「風俗」というのは一過性の「流行」ではなく、日本人のライフスタイルに定着したものってことだね。

★2人(木滑と石川)の日本版「ケネディ王朝」はポパイ誌で見事に機能し、大成果をあげた。反米気分横溢の日本の学生たちにアメリカ大好きといわせたこと、Made in U.S.A.の印がついた商品を日本中に氾濫させたこと(略)

ベトナム戦争終結が1975年、ポパイ創刊は翌年。この絶妙の創刊のタイミング!

★2人(木滑と石川)はポパイ発刊以前の、人間が事件を起こし、その右往左往ぶりを報じるという記事制作パターンから、「モノ」を賞賛すれば、それが「事件」になるという新しい編集方針を発見した。

そして、ポパイ自体が「事件」になったのだ。

★木滑は新しい雑誌には、新しい言葉の開発、新しい文体が必要だという考えを持っていた。

「新しい文体」はアンアンも有名だけど、「新しい文体」を作った雑誌は他にあるんだろうか?

★このスキー用語記事で、内坂はポパイのもうひとつの編集方針、「独断と偏見がいい」という言葉を最初に書いた。

なるほどね。

★平凡パンチの頃から、木滑はもうこの世の出来事は、2頁もあれば充分語りつくせると、1冊丸ごと2頁特集を組んだりしていた。

ビジュアル系雑誌の記事は長くても2頁完結。これは僕の体にも染みついている。

★部数は100万部をめざすのではなく、30万部におさえて、広告売り上げ高で大きく稼ぐという計算であった。

これを踏襲したのが『週刊SPA!』だった。

★ポパイ創刊以前の編集長は、自分のつくりたい雑誌を純粋につくればよかったが、ポパイの成功は、創刊編集長の個人的考え方以上に電通雑誌局の意向が重視されるようになった。

結局、これが後にマガジンハウスの首を締めることになったわけだよね。皮肉にも。いや、雑誌業界全体の首を締めた。

★「ポパイ・スピリット」とは、小林泰彦が「Made in U.S.A.」75年版で宣言した通りに「街」と「物」にたよって生きているアメリカ風ライフスタイルを、日本の若者たちの生活に持ちこむという努力と願望だった。

これはわかりやすい!

★岩堀は飯こそ、雑誌を活性化させる最大の要素であると知っていた。

確かに飯はすごく大事。元気な雑誌の編集部は、いつも「元気飯」を食っているというか。