週刊ポチコラム:ポチことツルシカズヒコが雑誌批評などを書きます

vol.35 川本三郎著『マイ・バック・ページ』

川本三郎著『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』(河出書房新社)を、実に久しぶりに読んだ。雑誌『Switch』の連載(1986年2月号〜87年12月号)の単行化で、88年12月10日、初版発行だ。

川本三郎が朝日新聞社に入社したのは、69年。69年4月に『週刊朝日』編集部に配属され、71年5月に『朝日ジャーナル』編集部に異動。

71年8月、過激派グループ「赤衛軍」によって陸上自衛隊朝霞基地の自衛官が殺害される。「赤衛軍」のメンバーだったKと取材目的で接触していた川本記者は、殺害された自衛官が身につけていた警衛腕章を預かり、その警衛腕章を消却処分した。埼玉県警に逮捕されたKが、川本記者は「仲間」だと虚偽の自供をする。川本記者も72年1月9日、警衛腕章の証憑湮滅の容疑で埼玉県警に逮捕される。川本記者は容疑を認め(その時点で朝日新聞社は川本記者を懲戒免職処分)、懲役10ヶ月、執行猶予2年の有罪判決を受ける。

ジャーナリストに要求される「取材源の秘匿」という不文律が大きなテーマだが、川本三郎はこう書いている。

〈しかし、ジャーナリストもまた一市民である。犯罪を知ったらそれを警察に通報するのは市民の義務である。しかも、事件が単なる殺人事件ではなく、思想犯による政治行動だったことが事態をより複雑、深刻にした〉

当時の時代背景は新左翼運動の高揚期、そしてその急速な退潮期だった。70年3月の赤軍派によるよど号ハイジャック事件、71年2月の京浜安保共闘による真岡銃砲店襲撃事件。権力による過激派弾圧が強化され、新左翼運動を精力的にフォローしていた朝日新聞社出版局の『朝日ジャーナル』と『アサヒグラフ』は権力にマークされていたようだ。

さらに、朝日新聞社内でも「新聞対出版局」、「新聞の社会部対朝日ジャーナル」という対立構造があった。たとえば、新聞の社会部記者はサツ回りがあるので、警察とはギブアンドテイクの関係性があり、権力にマークされている出版局にいい感情を抱いていない。

ジャーナリストといえども企業の一員である。保身を考える企業ジャーナリスト、それに固執しなかった川本記者。しかも、川本記者はもともとサブカル好きであり、ジャーナリスティックな野心を持った人間ではなかった。そもそもKに興味を持ったのも〈文学的な興味〉からだった。

僕がこの本を最初に読んだのは、88年の暮れから89年の正月にかけての年末年始の休暇中だったと思う。当時、僕は創刊されたばかりの『週刊SPA!』の編集者だった。それから7年後ぐらいに、僕もある事件に関与して『週刊SPA!』の編集長を解任され、しばらくして会社を辞めた。僕も会社員であることとジャーナリストであることの葛藤を経験した。そのあたりを拙著『「週刊SPA!」黄金伝説』に書いたわけだが、本書『マイ・バック・ページ』を22年ぶりぐらいに再読して、感じたことの重みは最初に読んだときのそれとはずいぶん違うなぁ〜、やっぱり。

そして、こんなことも思った。時代の変革期に「事件」は起きるのである。川本記者の場合は新左翼運動の高揚期かつ急激な衰退期。僕の場合は雑誌文化の最後の高揚期かつ急激な衰退期だったのかな。

そして最後に、この本を読んでいた(88年の暮れから89年の正月にかけての年末年始の休暇中に)おかげで「良かったなぁ〜」と思うことを書きます。

野村秋介が朝日新聞東京本社で自決したのは93年11月でしたが、『週刊SPA!』(僕は当時、同誌の編集長)がその事件を記事にしたところ、野村秋介事務所からその記事に関して抗議がきた。「野村さんがガンを患っていたから」自決したのではないかという、あるジャーナリストのコメントがその記事に記されていた。野村秋介事務所から「そんな事実はないと」という抗議を受け(ジャーナリストのコメントの裏取り取材をしていなかったのはこちらの落ち度で、それに関しては謝罪した)、「そのジャーナリストの名前を教えてほしい」と言われた。「それはできません」と毅然と僕が返答できたのは、「取材源の秘匿」という大原則が即座に頭に浮かんだからであり、それは川本三郎のこの本を読んでいたからだった。