「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」120回 毒口

文●ツルシカズヒコ

「お前さんも、あんまり呑気だよ。用達しに行ったとき、遊びにいったときとは違うからね。子供を他人に預けてゆきながら、いつまでもよそにお尻をすえていられたんじゃ、預かった方は大迷惑だよ。もう少し大きくなれば、どうにか誤魔化しもきくけれど、今じゃ一時だって他の者じゃ駄目なんだからね、そのつもりでいてもらわなくちゃ」

 ただ美津の不機嫌な顔を見るのが嫌なばかりに、ようやくの思いで金をもらいに行き、どうにか持って帰って、まだ座りもしない前からいきなり、そうした言葉を美津に投げつけられ、野枝は心外ともなんとも言いようのない口惜しい腹立たしい気持ちでいっぱいになった。

 一時間や二時間くらいかかるのは初めからわかりきっているのだし、場合によっては、もつと延びるくらいのことは考えてくれてもよさそうなのに……。

 こんなことなら少々不機嫌でいられても、行かなければよかったとさえ野枝は思った。

 野枝はこの上いやな言葉は聞きたくなかったので、

「どうもすみません」

 と簡単に言ったきり、子供を抱いて次の間に入った。

 美津の気持ちはいつまでたっても直らないと見えて、耳を覆いたいような毒口が後を追っかけて来た。

 とうとう野枝もたまらなくなって言った。

『彼処(あそこ)まで、行つて帰るだけだつて二時間はかゝります。私だつて用足しに行つて、無駄な時間なんぞ呑気につぶしてやしませんよ。頼まれたつて落ちついてなんかゐられやしません。用の都合で一時間や二時間遅れる位の事はあたり前だと思つて行かなくつちや。さう用を足しに出る度に一々小言を言はれたり、当たられたりしちやたまりませんわ、好きで出てる訳ぢやないんですからね』

『あたりまへさ、好きで出られてたまるもんかね』

「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p304/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p283~284)

 野枝はそのまま黙ってしまった。

 普段、耐えている言いたいことのありったけがこみ上げて来るのをじっと抑えて、無心に乳房に吸ひついている子供を抱きしめながら、

「もう、あんなこと言われて金なんか出すものか」

 と思い、机の上の財布に目をやった。

 その中には義母の必要を充分にする金額の三、四倍もの金が入っていた。

 先刻まではその金でどんな嫌な思いをしたにしろ、もう自分の手で自由に使うことのできる金だと思うと、強い口をきいている美津に対して、なんとなく皮肉な嘲笑を投げたくなるのだった。

「いくらでも、なんとでも言うがいい。そのくらい言えば、金をくれとはまさかに言えまい」
 
 意地の悪い野枝の考えは、それからそれへと募っていき、もう少しなんとか言いたいことを言って、この金でどこか旅行でもしてこようかしら、それとももうこのままこんな煩さい家は出てしまおうか。

 そんなことまで野枝は考えていた。

 辻は朝出かけたままで、夕飯過ぎまで帰らなかった。

 美津と野枝はふたりとも意地悪く黙りこくって、いつまでも不機嫌な顔をし合っていた。

 夜になると野枝は子供を早く寝かして、そのまま机の前に座って、四、五日も前から半ば読んでそのままになっている書物を開いた。

 座ると不思議に険しい気持が去ってゆったりと落ちついた気分になり、久しぶりでしみじみと、書物に対することができたような快さを感じた。

 夜もふけてから、辻はぼんやり帰って来た。

 美津はまだ茶の間で、彼の帰りを待っているらしかった。

 野枝は帰って来た辻の顔をちょっと見ただけで、そしらぬ顔で書物に目を落とした。

 辻はさっさと茶の間に入っていった。

『何処を歩いてたの今時分まで』

「彼方此方(あちこちさ)さ』

『それで、何とか出来たかえ』

『駄目だ』

『それぢや困るぢやないか、お前は本当にどうしてさうなんだらうね。あんまり意気地がなさすぎるぢやないか、たんとのお金でもないのに。』

『明日どうかするよ』

『明日ぢや間に合ひはしませんよ』

『ぢや仕方がないや』

『仕方がないつて、それぢや済みませんよ、だから、朝もあんなに念を押しといたんだのに、お前のやうに当てにならない人間はありやしない。』

『だつていくら念を押したつて間に合はないものは仕様がないや、それよりはお茶を一杯おくれよ』

『お前はそれで済ましてゆけるけれど、お母さんは困つて仕舞ふぢやないか、お前が何時までも、さうやつて意気地なくのらくらしてゐるから、何だつて彼だつて皆家の中の事に順序がなくなつて仕舞うぢやないか、お前が第一確(し)つかりしてゐないからこの年になつて、嫁にまで馬鹿にされるのだよ、自分さへのんきにしてゐれば、他人はどうでも構まわない気かもしれないけれど、そうはなか/\ゆきませんよ』

「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p306~307/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p285)

 美津は今までひとりで長いこと考えためていたことを、また片っぱしから辻の前に並べようとしていた。

 だが、それはやはり今朝、散々並べたてた愚痴となんの違いもなかった。

 けれどやがて、なにをどう言っても平気な顔で聞いているのかいないのかわらないやうな辻の態度に、なんの手応えも感じなくなった美津は独り言のような調子から涙声になって黙ってしまった。

 野枝は同じ愚痴を聞きたくもないと思いながら、どうしてもそれが耳について、いったんそこに向いた注意がどうしても、書物の上に帰って来なかった。

 野枝の固く閉じた先刻の気持ちは、どこまでも開かないで遠い冷たい気持ちで次の間の話を聞いていた。

 野枝の心の奥底の方のどこかでは、いい気味だというような笑いさえ浮べているのであった。

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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