「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」119回 自己嫌悪

文●ツルシカズヒコ

「ああ、またどうしても行かなければならないのか……」

 上野高女五年時のクラス担任だった西原和治の家を訪れると、いつも西原は野枝が黙っていても察して金を出してくれるが、そういう用事で西原に会わなければならないことが、野枝はたまらなく苦痛だった。

 辻は口もきかずにブラリと家から出て行った。

 その後姿を見送りながら、野枝はまた西原のところへ行こうか行くまいかと迷っていた。

 美津がどうしても都合してくれという金が、そうまで必要な金でないことはわかっていた。

 神田へはいつものように知り合いの家で四、五日、呑気な日を送るために行くので、少々の手みやげを買う金や、小遣いや、雇人たちへのわずかな心づけが入用なのであった。

 野枝はそれよりもまだもっと苦しい必要に迫まられるときがあるのだと思うと、なるべくなら嫌な思いをして西原のところに行きたくはなかった。

 けれど、明日にも美津がどうかして出かけようとしているのに、それが出かけられないとなると、またつまらない不快な愚痴や嫌味を聞かねばならない、それも苦しかった。

 野枝は辻がどうかしてくれるかもしれないとも思ってみたが、それは自分が嫌な思いをしないですましたいという願望であり、ああしてブラリと出かけたところで、金策に出かけたのではないことはよくわかっていた。

 辻も自分もまだ一人前の人間じゃない、自分たちの歩く道さえまだ定まってはいない。

 満足に食べていくことさえできないのだ。

 それだのに、子供を連れて、年老いた母親にすがられて、どう彷徨しなければならないのだろう?

 これから先、どんなに母親を苦しめ、自分たちも苦しまなければならないことか?

 考えつめていくと、野枝の目にはその将来の惨めさに対する涙がしみ出すのだった。

「このままでは仕方がない。どうにかしなければ……」

 現在の生活のどこかに間違いがあることに気づきながら、それから出ることができないのは、第一には野枝の辻に対する愛には別段なんの変化もないからである。

 しかし、彼との関係が断てない間は、彼を通じての間接の関係を奇麗に断ってしまえないことも事実だった。

 またもうひとつ、野枝にとって新たな絆を持った子供は離しがたいものであり、辻の係累にとってもそうだった。

 そうなると、辻と子供とに執着がある間は、野枝はこの不自由から逃がれることは到底できないのであった。

 といって、辻を棄て子供を棄てて、自分の自由を通すことができるかどうかーー野枝にとって、問題はまたいっそう大きくなってくるのだった。

 辻と別れることも、子供と別れることも、本当に自分の行くべき道の障碍となる場合には止むを得ないーー野枝はここまで考えてみた。

 しかし、それを実行に移せるか否かは、自分の本当の道に対する所信によって決せられることである。

 所信――それがまた、困難なひとつの考へごとだった。

 何かのきっかけから、野枝が一生懸命にそういふことを考えているうちに、時間はずんずん経っていった。

 そして、日が暮れ夜が明けると、先刻、あるいは昨日、ムキになって感じた不自由や不平や不満は、もうそれほど近くに迫ってはいないのだった。

 野枝の思考はそこで中断する。

 そして、また不平が頭をもたげ出すと、初めから考へ直していく。

 こうして、結局どうすることもできずに、引きずられて来た。

 野枝はその不甲斐なさをたまたま反省することがあっても、それは自分の力が及ばないような矛盾や不条理や運命だと、大ざっぱに諦めてしまうよりほかはなかった。

 野枝が西原のところを訪れると、西原は嫌な顔も見せずに金を都合してくれた。

 西原に金を都合してもらうたびに、野枝はまともに西原の顔を見ることができないような片身の狭い思いを募らせ、卑屈になっていくような自分に対する自己嫌悪が胸に迫ってきた。

 あれほど意地を張って今宿の両親と争ったのだって、こういう生活をするためではなかったのだ。

 本当に一生懸命に勉強して、並みの親がかりの女たちとは少しは違った道を歩いてみせるためだった。

 こうした暮らしをするくらいなら、あれほどの辛い思いをして両親に楯つくまでもなかったかもしれない。

 もしこれがありのままに国許にでも知れたら、どんなに非難を受けることだらう?

 野枝の気持は重く沈んでいった。

 今こうして、母親のために嫌な用事をたしに来ていても、細かな家内の人々の感情のいきさつまでは、なかなか他人には明かせなかった。

 西原がこうして、なんのいわれもない金を惜し気もなく野枝のために出してくれるのも、少しでも野枝を自由にしてやりたいためだった。

 けれど、野枝が苦労して金策をしてきても、家内の人たちにとって、それは極めて当然のことだった。

 といって、野枝はそういうことを明らさまに西原に告げることもできなかった。

 こうして顔を合わすたびに、西原は何も他のことは口にせずに、ただ野枝が家庭生活の中に引き込まれてしまうことだけを気づかってくれる。

 西原は今まで、野枝の行為に対して非難がましいことを言ったことは一度もなかった。

 いつでも黙って、見ていた。

 それだけ、野枝の方でも彼に対しては、いい加減な態度ではいられなかった。

 云ふがまゝに、嫌やな顔も見せずに、出してくれた金を受取ると逸子はほつとした。

『どうだい、少しは勉強するひまは出来るかい?』

 龍一は重い唇を動かしてきいた。

『駄目です。一日中、用事に遂(お)はれ通しですわ、これぢや仕様がないとおもつてゐるのですけれど』

『子供がゐちやそれもさうだらうが、他の人と違つて、あんたは何とかして勉強だけは続けなきやいけないよ……』

『えゝ』

『谷さんの仕事が、早く見つかるといゝね、そしたら、少しは楽になれるだらう。何しろ毎日の食ふことの心配からしなくちやならないやうぢや、なか/\落ちつく事も出来まいね』

『えゝ、これでその方の心配がなくなればずつと違いますわ、だけど彼の人も何時の事だかあてにはならないんですもの、私も、もう少し何とか考へなければならないと、おもつちやゐるんですけれど』

 彼女は、何時までも龍一と、そんな話をつゞけるのは、何んとなくだん/\に自分の肩身を狭めるやうな辛さを感じるので思ひ切つていとまを告げて帰つた。

「惑い」/『新日本』1918年10月号・第8巻10号/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p300~303/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p281~283)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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