「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」128回 思想方向

文●ツルシカズヒコ

『青鞜』一九一五(大正四)年一月号に、野枝は「『青鞜』を引き継ぐに就いて」を書いた。

 野枝はまず、創刊からここまでに到る大づかみの『青鞜』の推移について書いた。

 新しきものゝ動き初めたときに旧いものから加へらるゝ圧迫は大抵同じ形式をもつて何時もおしよせて来るやうに思はれます。

 青鞜が創刊当時から今日迄加へられて来ましたあるゆる方面に於ける圧迫がこの種のものであることは今更云ふ迄もない事ですが更に私たちの主張が従来の歴史的事実からあまりに離れてゐたと云ふ事がーーそれは勿論人々から圧迫を受けたり反抗されたりするも重なる原因ですがーー予想以上に人々を驚かし或は不思議がらせました。

 そしてその懸隔があまりにひどかつた為めに、私たちは容易に他の人々と近づくことが出来ませんでした。

 そうして誤解を重ね……先入見の為めにお互ひにその間隔を近づけやうとはしなくなりました。

 けれどもまた却つてそれが衆人の好奇心を呼びました。

 そして不思議にも私達は他の雑誌のやうに経営の困難を感ずるやうな事はありませんでした。

 併し私たちの真面目な思想や主張は流行品扱ひにされました。

 皮相な真似のみをしたがる浅薄な人達の行為が私共の上に迄及びました。

 そして私たちは世間で八ケ(やか)ましく云へば云ふ程自己の内部に向つてすべてを集注しやうとしました。

 けれどもそれが為め世間との隔たりはだんだん遠くなつて仕舞ひました。

 誤解はとけずにそのまゝ私たちに対する世間の人たちの固定観念となつて仕舞ひました。

 併し世間の人達の好奇心が何時迄も続く筈はありません。

 私たちはまづ経済的の苦痛を知らなければならないやうになりました。

そうして今やつと私たち、少なくとも私丈けは自然社会と自分を前にして考へなければならなくなりました。

(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p147~148)

 野枝はさらに一歩踏み込んだ『青鞜』に対する自分の考えを書いた。

 最初青鞜を創刊する時の態度が第一に既に間違つてゐたやうに思ひます。

 私はその当時の事は本当に委しくは知りませんけれども……平塚氏の仕事であつたことは疑ひのない事実だと思ひます。

 処がそれは全く違つた形式で発表されました。

 社員組織だと云ふのです。

 私はたゞ一概にそれを悪いとは思ひませんけれどもそれは可なり根拠のない共同組織であつたらしく思はれます。

 そうして最初の創刊当時に仕事を執つてゐた人達は漸次に自分の仕事に去つて仕舞ひました。

 創刊後満一ケ年を経て私が入社して事務を手伝ふやうになつたときは既に木内、物集(もずめ)、中野、保持の諸氏とは顔を合すことは全くなかつたのでした。

 そして尾竹氏も去らうとして居られる時で編輯は平塚氏を助けて小林氏と私と三人でした。

 経営は東雲堂に委してあつた頃でした。

 子供のような遊びずきの尾竹氏が……無邪気に発表した楽屋落ちが意外に物議を醸した頃でした。

 私たちは本当に正直で世間見ずでした。

 私たちは世間と云ふものをさうまで頑迷だとは思ひませんでした。

 やがて私たちは私達自身を教育する為めに相当の智識を得る途を開かうとしてある計画を立てました。

 ……先づ講演会を開きました。

 それは私たちの考へてゐたのとは全(まる)で反対の結果を得ました。

 私たちは重なる誤解の為めに各方面に同情を失ひまいした。

 計画は見事に破れました。

 そうして私達の行為にあらゆる障害を加へられるやうになりました。

 また……外面的な皮相な行為を真似て得意らしく往来を闊歩して人々の嘲笑的好奇心を集めて喜んでゐるやうなえたいの知れない女達がぞく/\現はれました。

 そうして社員組織の禍ひは此処にも及んでそれ等の厄介な人達の行為の責任がすべて青鞜社に持ち込まれました。

 をとなしい内輪な平塚氏と純下町式娘の小林氏と小さな私と三人が生真面目な顔をして編輯してゐる青鞜社が女梁山泊と目されるやうな滑稽な事になつて来ました。

 侮蔑されながらも好奇心でのお客様が多かつた為めか雑誌の発行部数はずん/\ふえて行つたらしく思はれます。

 経営の方も左程苦労しなくてもよさゝうに思はれ出しました。

(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p148~149)

 そして、保持が『青鞜』の経営に関わっていたころのこと、自分はしばらく青鞜社の編集にも経営にも関わらなくなったこと、保持が退社してらいてうがひとりですべての業務をこなしていたころのことを、野枝は書き進めていった。

 らいてうが御宿に旅立ち、自分が『青鞜』の編集代理をするようになったころから自分の中に生じた、思想の変化について、野枝はこう書いている。

 その頃から私の思想の方向がだん/\変つて来たのを幾らかづゝ私は感じ出しました。

 今迄はどうしても自分自身と社会との間が遠い距離をもつてゐるやうに思はれました。

 そして社会的になることはともかく自分自身を無視することのやうに考へられてゐました。

 それが何時の間にかその矛盾を感ぜられなくなつて来たことです。

 私は幾度も幾度もそれを考へ直して見ました。

 けれどもどうも前の自分の考へ方がまだ行くところまでゆきつかなかつたのだとしか考へられなくなりました。

 そうして今迄一番適当な態度だと思つてゐた態度にあきたりなくなりました。

 今は社会的な運動の中に自分が飛び込んでも別に矛盾も苦痛もなささうに思はれました。

 たゞ併しまだ考へ方が進んだ丈けで私の熱情は其処まではまゐりません。

(「『青鞜』を引き継ぐに就いて」/『青鞜』1915年1月号・第5巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p150~151)

 野枝の思想の変化について、らいてうとの比較などにも言及し、宮本百合子はこう書いている。

『青鞜』をひきついだ伊藤野枝が、年齢の上でらいてうより若かったというばかりでなく、全体としての生活態度の上で、らいてうと対蹠していたことは、まことに意味ふかく考えられる。

 伊藤野枝が『青鞜』を引受けた心持には、同棲者であった辻潤の協力が計算されていたこともあったろう。

 しかし、彼女は、その時分もう子供をもっていた。

 若い母となった野枝が、日常経済的な困難や絶間ない妻、母としての雑用に追われながら、その間却って女、妻、母としての生活上の自覚をつよめられて行って、「社会的運動の中に自分がとび込んでも別に矛盾も苦痛もなさそうに思われました」という心持に立ったことは、今日の私たちの関心をひかずにいない点であると思う。

 らいてうと野枝との間のこういう相異は、唯二人の婦人の性格の相違だけのことであろうか。

 もとより個性的なものが大きく作用しているのではあるけれども、その個性のちがいそのもののうちに、既に新しい世代への水源が仄めき現れている感じがする。

「婦人と文学」/『宮本百合子全集 十七巻』_p209~210)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『宮本百合子全集 十七巻』(新日本出版社・2002年3月30日)

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