「あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝」134回 生き甲斐

文●ツルシカズヒコ

 一九一五(大正四)年一月末の深夜ーー。

 吹雪の中、春日町(かすがちょう)で一(まこと)を背負って電車を待っていた野枝は、二年前のあの夏の日のことを思い浮かべていた。

 ヒポリット・ハヴェルが書いた「エマ・ゴールドマン小伝」を読んだあの夏の日のことをーー。

 多くの人間の利己的な心から、まったく見棄てられた大事な「ジャステイス」を拾い上げることが、現在の社会制度に対してどれほどの反逆を意味するかということは、野枝もその前からいくらか理解はしていた。

 けれど、そういう社会的事実に対しては殊に疎かった野枝には、ひとりの煽動者に対して、大共和国の政府が取ったあらゆる無恥な卑劣な迫害手段は不思議なほどであった。

 初めて知り得たそれらの事実に対して、野枝は数多(あまた)の人々をシベリアの雪に埋めた旧ロシアの専制政治に対してよりも、もっと違った、心からの憎悪を感じないではいられなかった。

 しかし、それよりもさらにいっそう強く野枝の心を引きつけたものは、何よりもエマ・ゴールドマンその人の勇気であった。

 燃ゆる情熱であった。

 何物にも顧慮せずに自己の所信に向かって進む彼女の自由な態度であった。

 読み進んでゆく一頁ごとに、彼女の立派な態度は敵の陋劣な手段に対して、どんなに野枝の眼には輝やかしく映ったろう?

 野枝は静かに自分たちの周囲をふり返ってみた。

 ここでも、すべての「ジャステイス」は見返りもされなくなっていた。

 すべての者は数百年いや、もっと前からの伝習と迷信に泥(なず)んだ虚偽の生活の中に深く眠っていた。

 たまたま少数の社会主義者たちが運動に従事しようとしても、芽ばえに等しい勢力ではどうすることもできない。

 束縛の結び目のわずかな弛みを狙って、婦人の自覚を主張し出した自分たちにしても、何ひとつ満足なことはできない。

 そして、必ず現れなければならない新旧思想の衝突が、本当に著しい社会的事実となって現れることすら、まだよほどの時の経過を必要とするのではあるまいかーーとさえ思えるのだった。

 野枝はそんなことを考えながらも、すばらしいゴールドマンの生活に対して、自分たちの生活の見すぼらしさを思わずにはいられなかった。

「生き甲斐のある生き方」は、野枝が自分の「生」に対する一番大事な願望だった。

 何物にも煩わされず、偉(おお)きく、強く生きたいということは、常に彼女の頭を去らぬ唯一の願いであった。

 その理想の生活が、ゴールドマンによってどんなに強くはっきりと示されたことであろうか?

 本当にそれほどの「生き甲斐」を得るためになら、「乞食の名誉」もどんなに尊いものだかしれない。

 その「名誉」のためなら「奴隷の勤勉」もなんで惜しもうか?

 だがいったい、いつになったら日本にもそういうときが来るのだろう?

 そう考えると、野枝は急につまらない気がした。

 そうして染々(しみじみ)と、人間の個々の生活の間に横たわる懸隔を思わずにはいられなかった。

 野枝たちが、その機関誌『青鞜』を中心として作っているサアクルは、在来の日本婦人の美しい伝習を破るものとして、世間からは非難攻撃の的になっていた。

 みんなはムキになってその非難と争った。

 けれど、それがどれほどのものであったろう?

 ただみんな『青鞜』誌上にわずかな主張を部分的に発表するのが仕事の全部であった。

 集まって話すことも、自分たちの小さな生活の小さな出来事に限られていた。

 そして、みんなが与えられたものを着、与えられた物を食べ、与えられた室(へや)に住んで、小さな自己完成を計っていた。

 実際に社会的生活に触れているものはほとんどなかった。

『青鞜』に向かっての攻撃のひとつは、物好きなお嬢様の道楽だというのであった。

 実際そう見られても仕方のないほど、みんなの生活は小さかった。

 みんなが自分たちの生活の弱点に気兼ねをしながら婦人の自覚を説いた。

 けれど、それは決して道楽ではなかった。

 みんな一生懸命だった。

 けれど、まだ自分たちの力を危ぶんでいるみんなは、本当に向こう見ずに種々な社会的事実にブツかるのが恐いのだった。

 しかし、彼女等の極力排している因習のどれひとつでも、現在の社会制度を無視して残りなく根こそぎにすることができるであろうかということになれば、どうしても「否」と答えるより他はなかった。

 けれど、その点にはできるだけ触れたくもないし、触れずにいればそれですましてもいられるのが、みんなの実際であった。

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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