「詳伝・伊藤野枝」第256回 東京監獄・面会人控所(二)

文●ツルシカズヒコ

 「ガターン」

 控所のすぐ近くの部屋の入口の重い扉が、力いっぱいに手荒くブツケるように閉める音がした。

 「まあなんて嫌な音だろう。まるで体がすくむような音ね」

 「……あの音を聞くと実に……しばらくあの音を聞かなかったなあ」

 村木は微笑しながら、野枝の言葉を受けてそう言った。

 「しかし、あれじゃまだ駄目だな。檻房の扉はとてもこんな扉とは比べものにならないくらい、厚く頑丈にできていますからね。もっとずっと重い重い音がするんです。そして鍵のガチャガチャする音がしないじゃ、本当の気持ちは出ませんね」

 村木は遠のいた自分の獄中生活をしみじみ、その音で思い出したような調子で話し出した。

 「狭い独房にポツンと一日中座っているんですからね、ちょっとでも外へ出るのはそれは楽しみなもんですよ。面会所まで出て来る途中なんか、ずいぶん遠いところがありますからね、ブラブラあちこち眺めながら歩いて来るのは、そりゃせいせいしていい気持ちなものですよ」

 ふたりが話していると、面会を終えてきた斎藤兼次郎の大きな体が廊下の入口をふさいだ。

 「やあー」

 「斎藤爺」と同志の間で呼ばれている老人は、肥った血色のいい顔にいつものような穏やかな笑みを見せながら、石階を降りて野枝の方に近づいて来た。

 野枝が腰をかがめて挨拶するの受けて爺は丁寧に見舞いを言った。

 「どうです? 大須賀くんは元気でいますか?」

 「ええ。たいへんに元気です。みなさんによろしく申しましたよ。それから書物を入れてほしいということでした。ええと–––」

 「あ、それは今日持ってまいりました。大須賀さんが言ってらしたモウパサンの短編集とゴルキイのカムレエドと辞書を入れました。長くなるようでしたら、また何か入れるつもりです」

 「大杉さんにお会いになったら、よろしくおっしゃって下さい」

 斎藤爺は野枝にそう言うと、立ち上がって出て行った。

 「あーあっ」

 斎藤爺の姿が見えなくなると、村木は不精らしく懐手をしたままで体を伸ばしながら大きな欠伸をした。

「雨が上がったようだな」

 そのとき、たったひとつの高い窓に薄っすらと頼りない日が射していた。

 その窓の下の腰掛けに窮屈そうに腰かけている、子供を背負った女がいるだけで、控所はひっそりとしていた。

 じっと腰をかけていると、裾の方から冷えてくるのが野枝にははっきりとわかった。

 野枝は寒さに対して意気地のない、大杉の体のことが心配になり出した。

 「ねえ、村木さん、毛布は下に敷いて座ってもいいの?」

 「ええ、いいんですよ。みんな一枚ずつ入っているんでしょう?」

 「ええ、でもこの寒さに火の気なしはたまらないわね。大杉は去年からの風邪がまだ抜けないんですから」

 「大丈夫ですよ、ここにいる間は、とにかく気持ちが違うから風邪なんか抜けてしまいますよ。それになんと言ってももう三月ですからね。もうひと月早いと、こんなもんじゃありませんよ。ちょうどいいときだ。これから二、三ヶ月や五、六ヶ月なら一番いいときですよ」

 村木は立ち上がって、野枝の前をソロソロ行ったり来たりしながら言った。

 「もう何時ごろでござんしょう?」

 ふと、隅っこに座っている女が向き直って聞いた。

 野枝はコートのポケットをさぐって時計を出して見た。

 「一時二十分前ですよ」

 「ああ、さようですか。どうもありがとうございます」

 女は座っていた足を痛そうに伸ばしながら、汚い下駄の上に乗せた。

 背中の子は大きな坊主頭を母親の背におっつけてよく眠っていた。

 その母親の櫛の歯のあとなど見えない油っ気の抜けた、そそけ放題な頭の毛や汚いねんねこで、野枝の眼にはどうしても、その日暮らしの人足か立ん坊の内儀としか見えなかった。

 「ずいぶん待ちますねえ」

 村木は持ち前の優しい調子でそのかみさんに話かけた。

 「ええ、朝からですから、ずいぶん長いこと待ちます。まだお昼っからのは、なかなかでございましょうか?」

 「いや、もうじきでしょう。一時になったら会わすでしょう」

 「あ、さようでございますか、どうもありがとうございます」

 かみさんはそれで口をつぐんだ。

 ちょうどそのときに、受付の窓口に洋服を着た一人の男が立った。

 受付の男は何か頻りに聞き糺しながら、面会の手続をしてやっているらしかった。

 野枝はすぐに立って行った。

 その男が番号を書いた札を受け取って退くと、すぐ野枝が代わった。

 「誰に会う?」

 受付の年老(としと)った役人は、さも横風(おうふう)に野枝の顔を睨みつけた。

 広い部屋の中に縦横に置かれた大きな机の前のあっちこっちの顔が、物珍らしさうに野枝の顔を老人の肩越しに覗いていた。

 野枝は爺さんの横風な問いにムッとして睨み返しながら、素っ気なく大杉の名を言った。

 「あ、大杉さん–––そうですか、あなたは?」

 爺さんは急に態度も言葉使いも改めながら、言った。

 野枝は黙って自分の名刺を差し出した。

 「どういうお続柄で–––」

 「内妻–––」

 そう言って、野枝はフッとくすぐったい笑いが洩れそうになった。

 同時に新聞の三面以外ではまず見たことがない、「内妻」という言葉がむやみと感の悪い言葉に思えて仕方がなかった。

 野枝が「七十二番」という番号札を受け取って控所に戻ると、外の控所から入って来た面会人が十人近くもいた。

 そして後から後から三、四人ずつゾロゾロ入って来て、いつの間にか、ヒッソリしていた控所の中は一杯になり腰掛けには空きがなくなった。

 野枝は席に戻るとすぐ時計を出して見た。

 一時はとうに過ぎていた。

 廊下には書記や看守が往ったり来たりし始めた。

 「ガターン!」

 遠く近く、扉の音が幾度も幾度も野枝の眉をひそめさせた。

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

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