「詳伝・伊藤野枝」第193回 パツシヨネエト

文●ツルシカズヒコ

 一九一六(大正五)年五月三日、野枝は大杉から三通目の手紙を受け取った。

 ……三十日と一日の二通のお手紙が来ている。

 本当にいい気持になつて了つた。

 僕はまだ、あなたに、僕の持つてゐる理窟なり気持なりを、殆ど話した事がない。

 それでも、あなたには、それがすつかり分つて了つたのだ。

 二ケ月と云ふものは、非常な苦しさを無理に圧へつつ、全く沈黙してあなたの苦悶をよそながら眺めてゐたのも、決して無駄ではなかつたのだ。

 しかし、一時は僕も、全く絶望してゐた。

 そして僕は、せめては僕の気持もあなたに話し、又あなたの気持も聞いて、それで綺麗にあなたの事はあきらめて了はうと決心してゐた。

 あなたの事ばかりではない。

 女と云ふものには全く望みをかけまいとすら決心してゐた。

 そして、それと同時に、僕自身の力にもほとんど自信を失つてゐた。

 あなたは、僕に引寄せられた事を感謝すると云ふ。

 けれども、僕にとつては、あなたの進んで来た事が、一種の救ひであつたのだ。

 それによつて僕は、僕自身の見失はれた力をも見出し、又それの幾倍にも強大するのを感得する事が出来たのだ。

 けふの、あの二通の手紙は、まだ多少危ぶんでいた僕を、全く確実なものにしてくれた。

 本当に僕はあなたに感謝する。

 あなたの力強い進み方、僕はそれを見てゐるだけでも、同時に又僕の力強い進み方を感じるのだ。

 本当に僕は、非常にいい気持になつて、例の仕事にとりかかつた。

 昼飯までの、二時間ばかりの間、走るやうに筆が進んで、いつもの二倍ほども書きあげた。

 御宿の浜と云ふのは、僕の大好きな浜らしい。

 僕には、浜辺が広くつて、其処に砂丘がうねうねしてゐないと、どうも本当の浜らしい気持がしないのだ。 

 僕の育つた越後の浜と云ふのがそれであつた。

 あなたの、早く来てくれという言葉も、何んの不快もなしに、といふよりは寧ろ、非常に快く聞く事が出来た。

 本当に行きたい。

 一刻でも早く行きたい。

 今にでも、すぐ、飛び出して行きたい位だ。

 あたなの本の話は駄目だつた。

 文章世界は、そんな話は全く駄目。

 狐月(中村狐月)は少しも顔を見せない。

 兎に角、往復の旅費さへ出来たら、せめては一晩泊りのつもりで行く。

 そして第二土曜日にあなたが上京した際には、必ず何んとか都合して、一緒に御宿へ行けるようにする。

 あなたが大きな声で歌ふと云ふ其の歌ひ声を聞きたい。

(『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号_p160~163/「戀の手紙ーー大杉から」大正五年五月二日午後五時/『大杉栄全集 第四巻』_p604~607)

 野枝はこう返信した。

 ●あなたの手紙を拝見して、私も大変いい気持になりました。

 本当に今私は幸福です。

 そして、あした電話をかける事を楽しみにして。

 ●今日は午後からはじめてのいい天気でしたので、板場と女中を一人連れて山へ行きました。

 ●海が真つ青で、静かで、本当にいい景色でした。

 暫(しばら)く山の上にゐて、それから又ゆつくり歩いて帰つて来ました。

 ●あなたの事を考へるとおちつきを失つてしまひますので困ります。

 此処の女中たちはヒステリイ患者だと思つてゐるらしいのです。

 ●今日はもう夕食をすまして眠らうと思ひましたけれど、眠れないので三味線をいぢつて見ましたけれど、面白くも可笑(おか)しくもないのでやめて、あなたのお手紙を順々に読んで、何んだか物足りなくてこれを書き出したのです。

 ●ゆうべウヰスキイを飲んだ上にまた日本酒を一本あけましたので、急に体に変調が来たらしいのです。

 ●父の処に一昨日から手紙を書きかけて、まだ書けないでゐるのです。

 ●狐月氏が、此間私のことをパツシヨネエトだつて悪く云ひましたけれど、私は今度はそんなにパツシヨネエトではないと自分で思つてゐましたのに、矢張りさうなのですね。

 ●かうしてぢつと目をつぶりますと、あなたの熱い息が吹きかかつてゐるやうに感じます。

 ●あしたはあなたのお声が聞けると思ひますと、本当にうれしく胸がドキ/\します。

 ●静かな夜に潮の遠鳴りが聞えて来ます。

 さびしい夜です。

 あの音が聞えますと何んだか泣きたくなつて来ます。

 ●丁度、何時かの夜、あなたが–––さう/\芝居にゐらしたといふ夜、お訪ねしてお逢ひする事が出来ないで、青山(菊栄)さんの処で話をして、あの土手から向ふを見た時のやうな、あんな情けない悲しい気がします。

 ●あんなにも無理な口実を構へてでもあなたに会はなければゐられない程に、あなたを忘れられない癖に、どうしてもハツキリした事が云へないでは、自分も苦しみあなたをも苦しめたのですね。

 ●何んと云ふ馬鹿な事だつたのせう。

 それも、矢張り私の意地つぱりですね。

 ●でも私は、あの夜訪ねてお留守だつた時には、あすこの入口のところで泣きさうになりましたの。

 ●青山さんと土手で話しながら市ケ谷見附(いちがやみつけ)まで歩きましたけれど、私は何を話したのか分りませんでしたの。

 ●今から電話をかけに行きます。

 かけてお留守だと、本当にいやになつて仕舞ひますね。

 何卒ゐて下さいますやうに。

 何にを話していいのか分りません。

「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p355~356/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

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