コウコラム:「服を買わない生活」の中で考えたアレコレを書きます

第82回 給食完食問題を考える

数日前の朝日新聞「声」欄に、
小学校の給食の時間に食べ終わるまで食べさせられた話を
投稿している人がいた。確か、40代なかばくらいの女性。
自分がまさに当事者だったのでつい読みました。

そしたら、今日の「声」欄にもアレに反応したと思われる
「おおらかな給食環境に感謝」という記事が載っていた。
給食の残りをハトに食べさせて「ひとり残り」を逃れたって話。
今度も私と同世代の50歳。
昭和30年代後半生まれの人間に
給食完食問題ってわりと印象深い事件だったのねえ。

しかし、今朝の記事の中で気になったのは
「昼休みや掃除の時間にひとり残って食べずに済んだことを、
ありがたく思っている」という部分。
そういえば、前回の記事も、
掃除の時間まで食べさせられてツラかったみたいな内容だった。

で、ニブイ私は40年くらいたってようやく気づいたわけです。
昼休みや掃除の時間にひとり残って給食を食べている子を
それ以外の子は「かわいそうな子」として見ていたんだ、と。
大変、日本人らしい差別感情でもってながめていたんだ、と。
へえ、そうだったのかあ。
たかが給食くらいで。

そうだったとして、
でも、昼休みや掃除の時間に
ひとり残って給食を食べさせられていた本人は証言したい。
あれはぜんぜんツラくなかったよ、と。
私をながめていた同級生の心理はわかんない、というか、
「声」欄の人みたいに「私があっちじゃなくてよかった」
という心理でながめていた子は多いのかも。
でも、私はそういう視線でながめられているとは感じてなかった。

同世代で給食完食問題で盛り上がるとき、
「掃除の時間になってもひとりで食べさせられていた子って
必ずいたよねえ」という話になって、みんなが
「うんうん、いたいた」とうなずいて、
「そうそう、アタシがそう」って私が言うの。
あんまり「私も」って人に出会ったことはない。
たぶん35人くらいのクラスにたいていひとりだったんでしょうね。
そりゃあ、そのくらいの確率なら、
自分がはずれる確率のほうが高いから、
タノシイ差別感情を刺激するわねえ。
そうか、キミはもう、じゃなくて、
そうか、そういうもんだったのか。

当事者だった私に言わせてもらうと、
掃除の時間になって、
机や椅子を後ろのほうにガアッと寄せられた中で、
いつまでも給食のトレーをかかえてモゾモゾ食べていたことは
イヤな思い出じゃありません。
ごめんね、みんな、と言うべきか。

イヤどころか、わりと楽しい思い出。
だって、そういうとき、
私はひとりで「寂しく」食べていたっていう記憶がないんだもの。
まず、ひとりじゃなかった。
食べさせられているのは私ひとりなんだけどさ、
まわりに同級生がいて、
ペチャクチャおしゃべりしながら食べていました。

掃除している同級生に「まだ食べてんのか」みたいなことを
言われながら食べていたりもして、でもそれを私は、
掃除している同級生とおしゃべりしながら食べていた
と記憶している。
感じ方の違い、いや、勘違いなのかもしんないけど。

たぶん、誰も解説してくれないだろうから自分で解説すると、
自分の側にそういうなんでもいいからなにかあったら
他人を差別したいという意識がないから、
自分が差別される立場に置かれてもそれをツラいと感じないわけよ。
みんなと同じ意識をそもそも持ってないっつうか。

で、まあ、つまりとにかく
ぜんぜんツライことじゃなかったわけですが、
昼休みになっても掃除の時間になっても全部食べろ
と先生に言われたことも、むしろ
「給食の時間が終わってても食べていいんだ」と思ってました。

だからもしも私が給食問題で投稿するなら、
「いつまでも食べてていいとは、
なんておおらかな学校だと思いました。
今の学校教育はその点、給食を食べるのは給食時間だけだなんて、
窮屈過ぎるのではないでしょうか。プンプン」
と投稿するような気がする。

低学年のころは給食の時間が最後だったりするから、
放課後、みんなが帰ったあとも、
教室に友達数人と残って給食を食べていたような記憶すらある。

私はおしゃべりが好きだったので
(過去形じゃないか、今もだけど)、
授業が終わってんのに学校にいていいというか、
それも私ひとり特別にいつまでも教室をひとりじめして
掃除もしないで給食を食べていいなんてうれしいというか、
勉強せずに教室にダラダラ残っていていいのって
わりと好きだったけどなあ。